カテゴリー「縁の地」の記事

2011年6月12日 (日)

紫野斎院跡

225saiin_1斎院」という言葉は、一般的には賀茂の大神に仕える未婚の皇女・女王(=賀茂斎王)を指し、『源氏物語』にも「朝顔の斎院」と読者に呼び習わされる女性が登場しますが、本来は賀茂斎王の居所を指す言葉でした。
今回取り上げるのは、人物ではなく場所の方の斎院です。

賀茂斎王は、伊勢斎王(斎宮)と同じく新帝即位に伴って卜定され、宮城内の初斎院で潔斎した後、卜定から3年目の四月に賀茂川での禊を経て斎院に入りました。
以後は毎年四月の中の酉の日に行われる賀茂祭に奉仕し、祭に先立って斎院から賀茂川に出て行う御禊や、祭当日~翌日に斎院と上賀茂・下鴨両神社とを往復する斎王の行列は、都人のまたとない見物の対象でした。
『枕草子』には賀茂祭と還立(かへりだち。上賀茂神社から斎院への還御)を見物する人々の様子が活写されていますし、『源氏物語』葵巻に描かれる御禊見物を巡っての車争いはあまりにも有名です。

そうした行列の出発・終着点である斎院はどこにあったのか?と言うと、『文徳実録』仁寿二[852]年四月乙卯条に「是日。始入紫野斎院。」とあるのが斎院の場所が明記される最初の例とされており、建暦二[1212]年に最後の斎王・礼子内親王が退下して斎院制度が廃絶するまで、特に場所の変更はなかったようです。
一条朝の頃も斎院が紫野にあったことは、『源氏物語』賢木巻で源氏が雲林院に参籠する場面で
吹き交ふ風も近きほどにて、斎院にも聞こえたまひけり
と語られていることや、『枕草子』第三十八段「鳥は」の中に
祭の帰さ見るとて、雲林院、知足院などの前に車を立てたれば
と記されていることなどからも窺えます。

ここから更に進めて、紫野斎院の位置の特定を試みたのが角田文衞氏です。
角田氏は、平安時代のさまざまな文献から

  1. 斎院は、大宮末路の西側に接して営まれ、一条大宮と雲林院の中間に所在したこと
  2. 斎院の南に接して「南大路」と呼ばれる大路が東西に通じていたこと
  3. 斎院は南が正面であること
  4. 斎院は、方五十丈の敷地を占めていたとみなされること
  5. 斎院の西側を有栖川が流れていたこと

更に中世の文献から

  1. 大宮末路には、斎院の直ぐ南に石橋が架かっていたこと
  2. 有栖川は、「安居院北大路」をよぎり、東に屈折し、大宮末路の近くで舟岡方面から流れて来た小川と合流し、大宮末路を横切っていた(そこに石橋が架かっていた)こと

の合計7つの条件を抽出し、現在の京都市上京区大宮通廬山寺上る西入る社横町に鎮座する櫟谷七野神社を含む約150m四方の一画が紫野斎院であったと推定しています。
現在、櫟谷七野神社の境内には賀茂斎院跡顕彰碑が建てられ、角田氏の手になる斎院跡の説明板も設置されています。
斎院跡の解説パンフレットも販売されており、A4カラー印刷4ページの冊子に、顕彰碑の碑文と説明板の文章、歴代斎王の年譜、斎院跡の推定地を現在の区画に重ねた地図が掲載されています。

226saiin_2 尚、櫟谷七野神社は、社伝によると文徳天皇皇后・藤原明子が安産祈願のために春日明神を勧請したことに始まるとされていますが、角田氏の調査によればこの神社の存在が確認できる最古の史料は応永七[1400]年であり、平安時代から存在したとは考えにくいようです。
社名の「七野神社」は、紫野を含む船岡山麓一帯の7つの野の惣社として祀ったことに由来するとも、春日明神と合わせて伊勢・八幡・賀茂・松尾・平野・稲荷の六神を勧請したことによるとも言われていてはっきりしませんが、この点について角田氏は、斎院の守護神七柱(大殿神・地主神・御門神・御井神・庭火神・忌火神・御寵神)を斎院廃絶後に敷地内の一画に合祀したのが始まりで、祀られた神々が平凡で抽象的な屋敷神であるが故に、後になって信者獲得のために適当にご祭神を変更していったのではないか――と推測しています。
現在の櫟谷七野神社には、高沙大神・春日大神など合計22柱もの神々が祀られています。

京都市中心部からはちょっと行きにくく感じる場所かもしれませんが、ここから少し北東に歩けば雲林院、更に堀川通まで出れば紫式部墓所との伝承を持つ墳墓もありますし、逆に西に向かえば平安京建都の基準点となった船岡山や紫式部供養塔が境内に建つ引接寺(千本閻魔堂)も徒歩圏内です。
この辺り一帯の史跡を散策するつもりで訪れることをお薦めします。

写真は、上が櫟谷七野神社境内に建つ賀茂斎院跡顕彰碑、下が櫟谷七野神社入り口の鳥居です。いずれも2011年5月撮影。

【Data(櫟谷七野神社)】
住所:京都市上京区大宮通廬山寺上る西入る社横町277番地
交通:市バス天神公園前下車徒歩10分
拝観:境内自由(解説パンフレット1部100円)

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD- ROM版』角川学芸出版 2006年
国史大辞典編集委員会編『國史大辭典』吉川弘文館 1979-1997年
平凡社[編]『京都市の地名』(日本歴史地名大系27)平凡社 1979年
加納重文著『源氏物語の舞台を訪ねて』宮帯出版社 2011年
角田文衞「紫野斎院の所在地」(『王朝文化の諸相』〔法蔵館 1984年〕所収)
平安京探偵団「平安京を歩こう」内 紫野斎院跡
賀茂斎院跡パンフレット

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 
本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (1)

2010年6月11日 (金)

河原院跡

223kawaranoin 224hongakuji 乙女巻でその造営が語られ、以後光源氏の後半生の主な舞台となる六条院は、『河海抄』以来源融の河原院がモデルとされ、その場所は六条四坊十一町~十四町(現在の地図に重ねると河原町五条交差点付近から南西の一帯)と目されています。
物語本文に
六条京極のわたりに、中宮の御古き宮のほとりを、四町をこめて造らせたまふ」(乙女巻)
とあるとおりです。
源融は河原院に陸奥国の歌枕である塩竃を模した庭園を造ったと伝えられ、後世には難波江から海水を運んで塩焼きの風情を楽しんだとの伝説まで生まれましたが、その名残を現代に伝えるように付近には「塩竃町(しおがまちょう)」「本塩竃町(もとしおがまちょう)」の町名が残る他、本塩竃町内にある上徳寺は塩竈山(えんそうざん)と号し、同じ町内の本覚寺境内には第二次世界大戦中の強制疎開で撤去されるまで塩竃神社がありました。
観光寺院ではないため非公開ですが、本覚寺には現在も塩竃神社の掛額と源融像が守り伝えられているそうです。
また、1994年には六条四坊十一町の東北隅に当たる五条通河原町西入本覚寺前町で平安前期の池状遺構が発見され、「河原院の池跡出土」と地元で大きく報じられました。

一方、河原院跡の石碑は、平安京の東の境界線である東京極大路より僅かに東に外れた高瀬川左岸、下京区木屋町通五条下東側に建っています。
大正四[1915]年に京都市教育会によって建立されたこの碑は従来「河原院の正確な位置を示していない」と言われてきましたが、近年、河原院は京外の鴨河原にあったとする説が有力視されるようになり、この説に従えば石碑は正しく河原院の位置に建っていることになります。

河原院の位置を京外の鴨河原とする説は、建築学の分野では太田静六氏が『寝殿造の研究』の中で既に述べていますが、日本文学においてよく取り上げられているのは増田繁雄氏の論文「河原院哀史」で、この中で増田氏は、

  • 源融は京内の六条京極の邸と、東京極大路を挟んで隣り合う鴨河原の邸の2つを所有していた
  • 融の死後、邸は宇多上皇に献上され、京内の邸が「東六条院(略して「六条院」とも)」、鴨河原の邸が「河原院」と呼ばれた
    東六条院」は、宇多上皇の仙洞御所「中六条院」(六条三坊十三町)との区別から付いた呼称
  • 宇多上皇崩御後は有力な所有者がなく、分割して融の子孫が住んだり寺に改められたりした
  • 本来の「河原院」の地が度重なる鴨川の洪水で削り取られていったこともあり、院政期頃には「東六条院」の地も一括りに「河原院」と呼ばれるようになった

とまとめています。

現在の地図に平安京条坊図を重ねると、鴨川が東京極大路の間近まで迫ってきていて河原院のような大邸宅を造営する土地はとてもありませんが、この点については増田氏に先立って矢野貫一氏の論考(「河原院」)があり、平安京遷都の時点では鴨川は人工的に河合から九条まで南北一直線に流されており、その流路が時代と共に東高西低の京都の地形に沿って西に偏り、現代に至っていると推測しています。
一直線の流れであれば鴨川は現在の大和大路通の辺りになり、その西側に四町の大邸宅が充分に造営可能だという訳です。
矢野氏は、河原院内に安置されていた仏像が長保二[1000]年四月二十日に祇陀林寺に移された記録(『日本紀略』『権記』)から、河原院の土地はこの時点で仏像を避難させなければならないほど鴨川の浸食を受けていたとし、その4年後の長保六[1004]年三月十日に行われた鴨川の流路を東へ移す工事(『権記』『御堂関白記』)の現場も、『御堂関白記』同年三月十二日の記述から五条大路付近だったと推測しています。

以上のような研究の進展を踏まえると、光源氏の六条院のモデルが源融の邸であることは間違いないものの、厳密には「河原院」ではなく「東六条院」の方だと考えた方がよさそうです。

四町の邸宅というのがどれほどの広さであるかは、実際に現地を歩いてみるのが一番でしょう。
リンク集にも掲載しております、なぎさんのWebサイト花橘亭内のコンテンツ「『源氏物語』 光源氏の邸宅「六條院」を歩く」では、ご本人が地図を見ながら六条院の位置に現存する源融ゆかりの地を散策なさった様子が写真付きで紹介されています。
現地を訪れる際には事前にご覧になっておくことをお薦めします。

写真は、河原院跡の石碑(左)と本覚寺の外観(右)です。いずれも2009年9月撮影。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD- ROM版』角川学芸出版 2006年
紫式部顕彰会編纂『京都源氏物語地図』思文閣出版 2007年
針本正行編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識27 少女』至文堂 2003年
須田哲夫編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識13 末摘花』至文堂 2000年
「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典26 京都府』角川書店 1982年
平凡社[編]『京都市の地名』(日本歴史地名大系27)平凡社 1979年
平安京探偵団「平安京を歩こう」内 河原院跡
「河原院の池跡出土 庭園の存在裏付けか」京都新聞1994年9月9日朝刊1面
発掘調査現地説明会資料:平安京左京六条四坊十一町(PDFファイル)
 ※京都市埋蔵文化財研究所ホームページ「データ室」内に掲載されています
増田繁雄「河原院哀史」(『源氏物語と貴族社会』〔吉川弘文館 2002年〕所収)
 ※論文初出:後藤祥子[ほか]編『文学空間としての平安京』(論集平安文学1)勉誠社 1994年
矢野貫一「河原院」(「国語科通信」36号 p.73-75 1977年)
太田静六著『寝殿造の研究』「左大臣源融の河原院と六条院」吉川弘文館 1987年
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 
本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (0)

2009年5月 9日 (土)

鹿苑寺

215kinkakuji 「金閣寺」の通称で知られる鹿苑寺は、言わずと知れた北山文化の代表で、室町幕府第3代将軍足利義満によって造営された別邸・北山第の中に建てられた舎利殿(=金閣)などが基となった寺院です。
『源氏物語』の書かれた時代から400年も後に建てられたお寺がどうして『源氏物語』ゆかりの地なんだ?と疑問に思われる向きもおありでしょうが、この地が『源氏物語』の舞台と考えられていなかったら、金閣寺はここにはなかったかもしれない・・・今回ご紹介するのは、そんなお話です。

舎利殿としてあの絢爛豪華な金閣を備えた北山第は、西園寺家の別業・北山殿を義満が買い取って大々的に造り改めたものですが、歴史を更に遡ると、西園寺家がこの地に別業を営んだ理由に『源氏物語』があったという『増鏡』の記述にぶつかります。

今后の御父は、さきにもきこえつる右大臣実氏のをとゞ、その父、故公経の太政大臣、そのかみ夢見給へる事ありて、源氏中将わらはやみまじなひ給し北山のほとりに、世に知らずゆゝしき御堂を建てて、名をば西園寺といふめり。この所は、伯三位資仲の領なりしを、尾張国松枝といふ庄にかへ給てけり。もとは、田畠など多くて、ひたぶるにゐ中めきたりしを、さらにうち返しくづして、艶ある園を造りなし、山のたゝずまゐ木深く、池の心ゆたかに、わたつうみをたゝへ、峯よりおつる瀧のひゞきも、げに涙もよほしぬべく、心ばせ深きところのさまなり。
(中略)めぐれる山のときは木ども、いと旧りたるに、なつかしきほどの若木の桜なんど植へわたすとて、大臣うそぶき給ける。
  山ざくら峯にも尾にも植へをかんみぬ世の春を人や忍と
(第五「内野の雪」)

文中の「今后」とは後嵯峨天皇中宮の藤原姞子のことで、その祖父・公経が尾張国松枝の荘園と土地を交換する形でこの地を取得したことが語られています。
ここで注目すべきは「源氏中将わらはやみまじなひ給し北山のほとり」という一節で、当時この地が『源氏物語』若紫巻に登場する北山の「なにがし寺」の位置と考えられていたことが窺われます。
更に「峯よりおつる瀧のひびきも、げに涙もよほしぬべく」の一節は、公経が光源氏の詠んだ歌
吹きまよふ深山おろしに夢さめて涙もよほす滝の音かな」(若紫巻)
を意識して庭園を造営しており、その意図に『増鏡』の語り手が共感している、と読める表現ですし、それらを踏まえると「若木の桜」を植えて公経が偲ぼうとした「みぬ世の春」も、「山の桜はまだ盛りにて、入りもておはするままに、霞のたたずまひもをかしう」(若紫巻)と語られた『源氏物語』の北山の春を指していると想像できます。

この記述を『源氏物語』研究の分野で最初に取り上げたのは今西祐一郎氏の論文「若紫巻の背景」で、この一節が「まじなひ給し」と経験過去の助動詞「き」をもって語られていることから、若紫巻の北山の物語には先行する事実譚があったと推測し、『異本紫明抄』所引『宇治大納言物語』及び『今昔物語集』『宇治拾遺物語』に遺されている藤原公季のわらはやみ療治説話がこの物語の源泉であると説いています。
そして、公季の説話に登場する僧侶や寺の名前を手がかりに、神名寺という寺が平安時代から南北朝の時代に至るまで現在の鹿苑寺付近に存在し、この寺が若紫巻の「なにがし寺」である、と結論付けました。
更に今西氏は続く論文「公季と公経」において、公季を祖とする閑院流の正嫡を巡って、公経の血筋である西園寺家と、公季から数えて4代目に枝分かれした三条家との間で争いがあったことを指摘し、公経は公季ゆかりの地に別邸を構えることで自らが閑院流の正嫡であることを一門の人々に対して主張しようとしたのではないか、と推測しています。

今西氏の論文ではあまり強調されていませんが、公経が山荘造営を通して『源氏物語』の北山再現を意図していた点にも注目すべきだろうと思います。
この点は三田村雅子先生が『記憶の中の源氏物語』「I 男と女の源氏物語」の中で指摘しておられ、公経は公季と光源氏とを重ね合わせることで自己の家格の卓越性をアピールし、権威化された『源氏物語』の世界を統括する存在であることを誇示しようとした、との解釈を示しています。

以後、西園寺家の北山殿には度々盛大な行幸が行われ、天皇家と、外戚である西園寺家の繁栄を寿ぐ祝祭が催されてゆきました。
特に『源氏物語』紅葉賀巻の再現を目指したと見られる元徳三[1331]年の後醍醐天皇主催の舞御覧と、それを受け継ぐような北朝の天皇達による度重なる北山行幸を経て、足利義満による北山第造営と応永十五[1408]年の後小松天皇北山行幸をもって『源氏物語』再現の舞台としてのこの地の輝きはピークに達します。

後小松天皇の北山行幸は三月八日から二十八日まで21日間をも費やし、期間中には数々の華麗な行事が催されました。
実に大掛かりな行幸の規模には圧倒されるばかりですが、この行幸の様子を詳細に書き留めた一条経嗣の『北山殿行幸記』を読むと、四十余人の垣代を伴って舞われた青海波や、義満の秘蔵っ子・義嗣の描写などにおいて、明らかに『源氏物語』を意識した叙述がされていることに気づきます。
詳しくは『記憶の中の源氏物語』「II 青海波舞の紡ぐ「夢」」をお読みいただきたいのですが、冷泉帝の六条院行幸さながらに、表向きは方違え行幸の形を取りながら実質は義満に対する朝覲行幸と見做せる行幸の形式や、季節こそ秋と春で異なるものの紅葉賀巻の再現を強烈に印象付ける青海波の舞、天杯を賜るなど破格の待遇を受け「ひかる源氏のわらはすがたもかくや」(『北山殿行幸記』)と絶賛され、後世の歴史家によって皇位継承の可能性まで指摘された義嗣の存在(もし義嗣の皇位継承が実現すれば義満は、形は違えど光源氏と同じく“帝の父”になります)など、この北山行幸の中には何重にも『源氏物語』のイメージが取り込まれていると言えます。
光源氏が罪への恐れと病悩という心身の危機から再生し、比類ない栄華への道を歩み出す始発点となった北山の地(と信じられた土地)で、天皇を巻き込んで『源氏物語』の世界を再現しようとした試みには、あるいは光源氏のように天皇さえも超える存在にならんとした義満の野望が込められていたのでしょうか。

北山行幸の僅か1ヶ月少々後の応永十五[1408]年五月六日、義満は咳病で急逝し、同時に北山第の栄華も失われることになります。
義満の後を継いだ第4代将軍・義持は北山第を放棄して三条坊門の新第に居住し、「北山院」の尊号を持ち北山第に住み続けた義満の妻・日野康子が応永二十六[1419]年に亡くなると、建物の多くを解体して南禅寺などの寺院に寄進しました。
金閣など僅かに残った建物は、義満の菩提寺として義持がこの地に営んだ鹿苑寺に引き継がれた訳ですが、火災と戦乱で堂舎の多くは失われ、ほぼ唯一創建時のまま遺されてきた金閣も1950年に放火によって焼失、現在の金閣は1955年に再建されたものです。

あまりにも有名で、定番中の定番とも言うべき観光地となっている金閣寺ですが、その背景に『源氏物語』があったことを知ると、少し見方が変わりそうな気もします。
意外なところに影響を与えている『源氏物語』の底知れなさには驚くばかりです。

記事トップの写真は現在の金閣です。2003年5月撮影。

【参考文献】
今西祐一郎「若紫巻の背景―「源氏の中将わらはやみまじなひ給ひし北山」―」(「国語国文」53巻5号 1984年 p.1-18)
今西祐一郎「公季と公経―閑院流藤原氏と『源氏物語』―」(「国語国文」53巻6号 1984年 p.30-40)
三田村雅子著『記憶の中の源氏物語』新潮社 2008年
今谷明著『室町の王権 : 足利義満の王権簒奪計画』(中公新書978)中央公論社 1990年
平凡社[編]『京都市の地名』(日本歴史地名大系27)平凡社 1979年
Yahoo!百科事典
 「足利義満」(田中博美執筆)「西園寺公経」(多賀宗隼執筆)「西園寺家」(飯倉晴武執筆)
 「鹿苑寺」(平井俊榮執筆)各項目
伊藤博編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識5 若紫』至文堂 1999年
秋山虔編『新・源氏物語必携』(別冊國文學50)学燈社 1997年
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (0)

2008年8月 1日 (金)

西院野々宮神社

205saiinnonomiya_1 『源氏物語』屈指の名文と名高い賢木巻の「野宮の別れ」の場面の舞台というと、観光ガイドなどの影響で嵯峨野宮町の野宮神社だと思っていらっしゃる方が多いようですが、実は野宮跡と考えられる場所は野宮神社だけでなく他に何ヶ所もあります。
今回ご紹介する西院野々宮神社もその1つです。

最初に、そもそも“野宮とは何か”を簡単に押さえておきましょう。
天皇の代替わりと共に伊勢斎王に卜定された皇女は、まず宮中に設けられた初斎院で約1年間潔斎生活を送り、その後野宮に移って更に1年間潔斎を続けた後、卜定後3年目の九月上旬の吉日を選んで大極殿にて斎王発遣の儀(『源氏物語』や『栄花物語』などに「別れの櫛」と記される、天皇が斎王の額に櫛を挿して別れを告げる儀式)を執り行い、神嘗祭(かんなめさい。新穀を天照大神に奉る伊勢神宮の最も重要な祭)に合わせて伊勢へ出立しました。
神に仕える斎王となるための準備期間として身を清めて過ごした地が野宮だった訳です。
『延喜斎宮式』には「卜城外浄野。造野宮畢。」とあり、野宮は平安宮大内裏の外の浄野に、占いで場所を選んで造営することが記されています。
浄野」の場所ははっきりと記されていませんが、野宮が設けられたのは主に嵯峨野を中心とした地域で、野宮跡と伝わる場所も現在の右京区に集中しています。
いずれにしても、野宮は斎王一代毎に違う場所に建てられたということで、紫式部がどの斎王の野宮をモデルにしたかを明らかにし、尚且つその場所を特定しない限り、どこも「ここが『野宮の別れ』の場面のモデルです」などと名乗ることはできないのです。
(紫式部が生きた時代に野宮に入った斎王は、『紫式部日記』の記述から賢木巻の執筆を寛弘五[1008]年以前と考えても確実に2人はおり、そのどちらがモデルだったかも、それぞれの斎王が入った野宮の位置も、特定することはまず不可能と思われます)
「野宮の別れ」の舞台を訪ねたいとお考えの方には、このことを是非知っておいていただきたいと思います。

さて、野宮神社に比べると格段に知名度は低いものの同じく「野々宮」の名を冠する西院野々宮神社は、「西四条斎宮」とも称され、西小路四条から西へ1本目の通りを南に200mほど下ったところにあります。
とても小さな神社ですが、木々が鬱蒼としていて人気もなく、周辺の変電所やアパートなどとは明らかに異なる空気に包まれています。
『源氏物語』賢木巻に、「小柴垣」で囲まれ「黒木の鳥居ども」が立ち、「板屋ども」が並んだ先に「火焼屋」「北の対」があると描かれ、『延喜斎宮式』によれば145人もの斎宮寮の職員達が控えたという野宮の規模は到底偲ぶべくもありませんが、一方で「人気すくなく、しめじめとして」(賢木巻)という雰囲気はこんな風であったか…と思われるほど、夏でもひんやりとしていて静かな一角です。

206saiinnonomiya_2 鳥居は写真のとおり黒木ではなく、それが少々残念でしたが、社殿は板屋造りの仮宮だったという野宮を偲べそうな質素な造りです。
神社の由緒書によると、この社殿は安永四[1775]年十月二十八日に後桃園天皇より宮中の賢所を拝領して造営したものだそうです。
お祀りしているのは倭姫命と布勢内親王。
倭姫命は、皆様ご存知のとおり、垂仁天皇の皇女で天照大神鎮座の地を伊勢に定めたと伝えられ、伊勢神宮最初の斎王とされます(崇神天皇の代の豊鍬入姫命を起源とする説もあり)。
布勢内親王は、桓武天皇の皇女で、平安京から伊勢へ旅立った初めての斎宮です。
『平安時代史事典』によれば、布勢内親王は伊勢下向前に「野宮」と称する場所に入ったことが史料の上で確認できる最古の斎宮でもあるそうです。
また、藤原敦忠との恋で有名な雅子内親王(朱雀朝の伊勢斎王)が『後撰和歌集』や『玉葉和歌集』に「西四条斎宮」の呼称で記されていることから、神社では雅子内親王が入った野宮もこの地であるとしています。
(でも、選りにも選って敦忠の「あいみての後の心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」を引いて、潔斎の地である野宮を「王朝人の恋の舞台」と言ってしまうのは、いくらなんでも問題があるのではないかと思うのですが…)
『河海抄』は「野宮は四条の西の末也」(巻五・葵)と記しており、室町時代にこの神社が「野々宮」と呼ばれていたらしいことと、かつての右京は田園化して洛外と見做されるようになっていたことを考え合わせると、著者の四辻善成はここを六条御息所母子が入った野宮に想定したと読めます。
ただし、右京と言っても朱雀大路からさほど離れておらず、後述のように淳和院に程近いこの地が、室町時代ならぬ平安中期に「遥けき野辺を分け入りたまふより、いとものあはれなり」(賢木巻)という情景だったかどうかとなると、疑問ではあります。

神社創建の由来は明らかでなく、どの時代の野宮跡かもわからないようですが、江戸時代には西院春日町にある西院春日神社の御旅所となりました。
現在でも10月第2日曜日には、春日神社の神輿がここに渡御し、祭典が営まれているそうです。
西院春日神社の方には野宮との関連はありませんが、この付近は淳和天皇が退位後の後院とした淳和院の故地で、境内には淳和院の礎石と伝わる石もありますので、平安時代がお好きな方は併せて立ち寄ってみるとよろしいかと思います。

写真は、上が通りから見た境内、下が拝殿です。いずれも2004年8月撮影。

【Data】
住所:右京区西院日照町55
交通:阪急京都線・京福嵐山線西院駅または市バス西大路四条下車徒歩15分
    市バス四条中学前下車徒歩3分
拝観:境内自由
tel.:075-312-0474

【参考文献】
紫式部顕彰会編纂『京都源氏物語地図』思文閣出版 2007年
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
平凡社[編]『京都市の地名』(日本歴史地名大系27)平凡社 1979年
西院野々宮神社(公式ホームページ)
平安京探偵団淳和院跡

※この記事は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている「野々宮跡を巡る1 西院野々宮神社」を加筆修正したものです。

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (0)

2008年6月14日 (土)

源氏物語おすすめスポット~6/14日経土曜版より~

今日の日本経済新聞土曜版に、「源氏物語おすすめスポット」と銘打ったランキングが掲載されていました。
そろそろ夏休みの旅行の計画を立てようかという人に向けての企画なのでしょう。
ランキングは、
源氏物語ゆかりの地に詳しい専門家ら13人に、おすすめの観光スポットを10位まで挙げてもらい、順位に応じて傾斜配分してポイント化して集計した
ものだそうで、選者には国文学研究資料館長の伊井春樹氏や平安京の地理の研究で著名な朧谷寿氏、『源氏物語の時代』著者の山本淳子氏、「月刊京都」編集長の山岡祐子氏など、なるほどと思わされる名前が並んでいます。
“観光スポット”という条件が付いている時点でかなり絞られてくるだろうと思いましたが、予想どおり極めて順当でマニア以外の方にも親しみやすい場所が連なる結果となりました。

※本記事中のこの色の文字は、日経新聞からの引用。以下同じ。

堂々の1位は、291ポイントを獲得した京都御所
2位の石山寺が153ポイントですので、ほぼダブルスコアの圧倒的な支持です。
当Blogでもご紹介しているとおり、場所は違えど雰囲気を味わうには絶好のスポットですから、個人的にもこの結果には納得です。
(宮内庁が源氏物語千年紀に協力するかどうかはわかりませんが、折しも今年は今上天皇在位20年に当たりますので、秋の一般公開では参観範囲の拡大もあるのではないかと期待しています)

逆に意外だったのが石山寺です。
おすすめスポット2位に挙がったことは意外でも何でもないのですが、紫式部研究においては完全に否定されている『源氏物語』起筆伝説がここでも喧伝されていることには驚きました。
伝承として伝えてゆくことは大切ですけれど、史実と誤解されかねない曖昧な表現で観光客向けのキャッチフレーズにしてしまうのには些か抵抗を覚えます。
ですが、「挙がったことは意外ではない」と申しましたとおり、この伝説ゆえに石山寺には各時代の『源氏物語』にまつわる美術品や文学作品が数多く奉納されていて常設の紫式部展でその一部を見ることができますし、源氏物語千年紀に際しても「源氏夢回廊」と銘打ってさまざまなイベントを開催しており、『源氏物語』好きの方には間違いなく楽しめる場所だと思います。

ネガティブな感想が続いて恐縮ですが、石山寺以上に抵抗を感じてしまうのが3位の野宮神社です。
日経の記事も、多くの観光ガイドなどと同様「光源氏が(中略)六条御息所と別れた場所」と言い切っていますが、斎王が潔斎のために籠った野宮は一代毎に占いで場所を選定して新造したため、実際は位置が一定していないのです。
私が調べた範囲では、野宮神社の地が確かに紫式部がモデルに用いた野宮だと断定する根拠もないようですし、他にも野宮跡との伝承を持つ神社は嵯峨野周辺に何箇所もあるのですが、なぜか野宮神社だけが有名になり観光地化したようです。
確かに周辺に有名な観光スポットが多く交通の便もよいので手軽な観光向きではありますが、いつ行っても若いカップルなどで大賑わいなので、少なくとも「遥けき野辺を分け入りたまふより、いとものあはれなり」(賢木巻)という雰囲気は期待しない方がよいと思います。

4位は平等院
こちらも「光源氏のモデルとされる源融の別荘があった場所に建つ」という断定調の説明文には「う~ん…」と思わないでもないのですが(それとも私が見つけられていないだけでちゃんと根拠があるのでしょうか)、「王朝時代の風情を感じ取れる」「宇治上神社との対比で」との推薦コメントには全面的に賛同します。
鳳凰堂の素晴らしさもさることながら、鳳翔館で間近に見られる雲中供養菩薩像の優美さには溜め息しか出ません。

5位の廬山寺は、故角田文衞氏によって紫式部の邸宅跡と考証されたことから、お寺の方でも積極的に『源氏物語』関連の展示を催したりしています。
1位の京都御所のすぐ近くですし、これからの季節は「源氏の庭」が青紫の桔梗に彩られますので時節柄としてもお薦めです。

6位以下は、下記のとおりです。

6位:渉成園
7位:大覚寺
8位:宇治川
9位:清涼寺
10位:鞍馬寺

個人的にお薦めしたいのは、当Blogでも取り上げている大覚寺と清涼寺、鞍馬寺でしょうか。
いずれも桜や紅葉が美しく、しかもそうした時期でもあまり混雑しない点が気に入っています。
『源氏物語』との関係については、リンクを張りました各記事をご覧いただければ幸いです。

京都文化博物館で8日まで開かれていた「源氏物語千年紀展」を京都府などと共に主催し、展覧会に合わせて朝刊文化面で「源氏物語 : 千年の波紋」という記事を連載するなど、今回の千年紀に力を入れている日本経済新聞。
今後も関連記事が載るかもしれませんので、紙面に注目したいと思います。

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (1)

2008年6月 6日 (金)

大雲寺

199daiunji_1 京都北部・岩倉にある観光文化施設というと、実相院や岩倉具視幽棲旧宅が有名ですが、そのすぐ傍に大雲寺という小さなお寺があります。
1985年に火災に遭って江戸時代から続いた本堂が焼失してしまったそうで、現在は墓地の傍らにひっそりと建つ仮の本堂に本尊の観音菩薩像を安置していますが、1000年前の平安中期は広大な境内に講堂・五大堂・灌頂堂・法華堂・阿弥陀堂・真言堂の六堂宇を備えた大寺院でした(『扶桑略記』寛和元[985]年二月二十二日条)。
先月95歳で天寿を全うされた歴史学者の角田文衞氏が「北山のなにがし寺」(『若紫抄 : 若き日の紫式部』〔至文堂 1968年〕所収)以来若紫巻の「なにがし寺」のモデルとして繰り返し主張してこられたのが、この大雲寺です。

大雲寺公式ホームページによると、天禄二[971]年、延暦寺において西方の山に紫雲がたなびくのを見た円融天皇が藤原文範(紫式部の母方の曽祖父)を遣わし、文範がその地に真覚を開基として大雲寺を創建した、とあります。
天元三[980]年に円融天皇の御願寺となり、続いて寛和元[985]年には皇太后昌子内親王の発願によって余慶を開基とした観音院が大雲寺内に建立されました。
同年二月二十二日の観音院堂供養は内親王自ら行啓して盛大に営まれたことが『小右記』や『日本紀略』などに記録されており、長保元[999]年に亡くなった内親王の亡骸はこの地に葬られました。
現在、観音院跡と比定される場所に昌子内親王の岩倉陵があります。
その後も大雲寺・観音院には余慶の弟子達が深く関わっており、例えば、寛弘二[1005]年六月七日に権僧正勝算が営んだ不動尊像供養は、大僧正観修が講師を務め公卿・殿上人らが列席しての盛大なものだったことが『小右記』に記されています。
(勝算・観修はどちらも余慶の高弟。勝算は『紫式部日記』寛弘五[1008]年の五壇の御修法の記事にも「観音院の僧正」の呼称で姿を見せています)

大雲寺は園城寺の別院として建立された寺門派(延暦寺第五代座主・円珍を始祖とする学派)の寺院で、しばしば対立する山門派(延暦寺第四代座主・円仁の門流)との抗争の舞台となりました。
天元四[981]年に余慶が法性寺座主に任命されたことに端を発した山門派との対立により、余慶及びその門徒数百人が大雲寺に移り住んだ(『大日本史料』所収『四箇大寺古今伝記』)のをはじめ、その後は寺門派の重要拠点として山門派の攻撃に晒されたらしく「寺中多破壊」(『小右記』寛仁二[1018]年閏四月六日条)という状態に陥ったり、更に保安二[1121]年には焼き討ちに遭った記録(『史料綜覧』所収『百練抄』同年五月二七日条・『華頂要略』天台座主記)もあります。

200daiunji_2 201daiunji_3

また、これは史実としても『源氏物語』の執筆時期より後のことになりますが、後三条天皇第三皇女佳子内親王が境内に湧く霊泉を飲んで心の病が平癒したとの伝説があります。
1985年の火災まで本堂があった場所は、現在は北山病院の敷地になっていますが、この病院も歴史的に見ると、心の病の治療のために大雲寺に参詣する人々の滞在を引き受けた籠屋(こもりや)が発展したものだそうです。

大雲寺が地理的にいかに若紫巻の「なにがし寺」に相応しいかは、角田氏のご論文に力を込めて列記されていますのでそちらをご覧いただくことにして、今はその姿を留めていない平安時代の大寺院を偲びつつ、現在の大雲寺の様子をご紹介します。

202daiunji_4 バス停から実相院の手前の道を右に進むと、まず現在の大雲寺本堂に行き当たります。
隣の墓地から東南東の方角を望むと、意外なほど比叡山が近くに見えます。
なるほど、この距離なら比叡山の影響を大きく受けたのも当然だろうと思わされる景色です。

現本堂の前の坂を上って岩座神社を通り過ぎ、北山病院の敷地に入ると、突き当たりの駐車場の一角に不動の滝と水飲堂があります。
大雲寺設置の説明版によると、不動の滝は大雲寺で心の病を治すための加持祈祷を受ける人々の「垢離場(こりば)」で、この滝に打たれると病が本復すると信じられてきたそうです。
水飲堂の傍らには閼伽井があり、同じく説明版には、この水は「観音水」または「智弁水」と呼ばれ、心の病・目の病に霊験がある…と記されていました。
佳子内親王が飲んで病を癒したというのはこの水のことなのでしょう。
京都市による「源氏物語ゆかりの地」説明版が立っているのもここで、不動の滝の左手に設置されています。
このように大雲寺の歴史を示す名残のようなものは点々と存在していますが、何分にも現在は病院の駐車場、「寺のさまもいとあはれなり」(若紫巻)と記された「なにがし寺」を現在の光景から思い描くのは困難と言わざるを得ません。

203daiunji_5 204daiunji_6 角田氏は、水飲堂の辺りを僧都の庵と想定し、水飲堂の右手から谷沿いに登る山道を聖の巖屋に至る「つづら折」(若紫巻)に当てはめています。
この道を「一五〇メートルばかり登ると、右手の五メートルほど高い位置に岩陰が望まれ」(「北山のなにがし寺」)、ここを聖が籠った「峰高く、深き巖屋」(若紫巻)に当たるとしておられます。
この山道、現在も通れることは通れますがほとんど獣道に近く、道幅は狭く谷に迫っており、かなり勾配も急ですので、単独・雨天の探索はお薦めしません(と言いつつ、私が訪れた日は本降りの雨でしたが…到達できたのは道をよく知る先達が同行してくれたお蔭です)。
悪天候で足下も悪かったのでこの岩陰から更に上に登ってみることはできませんでしたが、仰ぎ見るだけでも鬱蒼とした気配で、果たして病身の光源氏が「後への山に立ち出でて、京の方を見たまふ」(若紫巻)などと気軽に登れたのだろうか?との疑問は感じました。
この点は、柏木由夫氏「北山「なにがし寺」諸説」(『源氏物語の鑑賞と基礎知識5 若紫』所収)や鈴木幸子氏「北山のなにがし寺」(『源氏物語紀行』所収)でも指摘されているとおりです。

大雲寺は、先にご紹介した鞍馬寺とはちょうど反対で、地理的には若紫巻の記述とよく合っているものの、現在ではほとんどその雰囲気を感じることのできない土地になっています。

写真は左上から順に

  • 現在の大雲寺本堂
  • 不動の滝
  • 水飲堂
  • 大雲寺墓地から望んだ比叡山
  • 水飲堂の脇から伸びる山道(岩陰に向かうには、石段から逸れて正面奥へ直進します)
  • 聖の巖屋に想定される岩陰

です。現本堂のみ2008年4月、それ以外はすべて2008年5月撮影。

【Data】
住所:京都市左京区岩倉上倉町305
交通:京都バス岩倉実相院下車徒歩2分
拝観:境内自由
tel.:075-791-8569

【参考文献】
鈴木幸子著『源氏物語紀行』創英社 2007年
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
伊藤博編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識5 若紫』至文堂 1999年
平凡社[編]『京都市の地名』(日本歴史地名大系27)平凡社 1979年
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
大雲寺公式ホームページ

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (0)

2008年5月 4日 (日)

注釈者が鞍馬寺に惹かれる訳

198kuramadera_6 前回の記事で、若紫巻に登場する北山の「なにがし寺」を鞍馬寺とする注釈類が最近でも多いと書きました。
たとえば、『新編日本古典文学全集20 源氏物語1』(小学館 1994年)や『常用源氏物語要覧』(武蔵野書院 1995年)では、角田文衞氏が提唱する大雲寺説を併記しつつも鞍馬寺を通説として紹介していますし、『源氏物語の鑑賞と基礎知識5 若紫』(至文堂 1999年)も、諸説を挙げはしながらも「源氏ゆかりの地を訪ねて」で取り上げているのはやはり鞍馬寺です。
また、現物を確認してはいませんが、『人物で読む源氏物語6 紫の上』(勉誠出版 2005年)の出版社Webサイト掲載の目次にも「鞍馬寺の満開の桜―若紫の登場」との項目があり、やはり鞍馬寺を「なにがし寺」とする文章が掲載されているようです。

私も現地に行ってみて実感しましたが、なるほど鞍馬寺には、現在でも「なにがし寺」の描写を髣髴とさせる情景がそこかしこに残されています。
加えて、大雲寺や霊巌寺、神名寺(神明寺)など、候補とされる他の寺院はいずれも現存しなかったり現存しても往時の面影を留めていなかったりするため、一層鞍馬寺の雰囲気が重視されているのではないかとも思われます。
ですが、調べてみるとそれだけではなく、若紫巻と鞍馬寺とを結び付けたくなる資料が『枕草子』以外にもいろいろとあることがわかってきました。

1つは、鞍馬山が桜の名所だったことを示す和歌の存在です。

  うず桜といふを人のもてまうできたりければ
これやこの音に聞きつるうず桜鞍馬の山に咲けるなるべし
(『定頼集』45番歌)

かすみたつ鞍馬の山のうず桜てぶりをしてな折りぞわづらふ(『六条修理大夫集』156番歌)

『定頼集』は、藤原公任の四男・定頼(長徳元[995]年~寛徳二[1045]年)の家集で、『源氏物語』が書かれた時期よりは若干後になりますが、ほぼ同時代に鞍馬の桜が「雲珠桜」と呼ばれて名高かったことがわかります。
『六条修理大夫集』は、白河院の近臣であった藤原顕季(天喜三[1055]年~保安四[1123]年)の家集で、この歌は「於七条亭人人、桜の歌十首よみしに」という詞書で始まる歌群の6首目に当たります。
『定頼集』の歌と同様に、10首の桜の歌に名が挙がるほど有名だったとわかる他、霞と桜という、
山の桜はまだ盛りにて、入りもておはするままに、霞のたたずまひもをかしう見ゆれば」(若紫巻)
と記されたのと重ねたくなる情景が詠まれていることが注目されます。
(とはいえ、霞と桜の組み合わせを詠んだ和歌自体は、この時代そんなに珍しいものではありませんが)

更に興味を惹くのが、柏木由夫氏も「鞍馬寺―北山のなにがし寺」(『源氏物語の鑑賞と基礎知識5 若紫』所収)の中で紹介しておられる次の歌です。

咲きやらぬ鞍馬の山のかば桜春のとぢめににほふなりけり(『為忠家後度百首』153番歌)

『為忠家後度百首』は、鳥羽院近臣であった丹後守藤原為忠が保延元[1135]年に主催した内輪の百首会で詠まれた歌を記録したもので、この歌は「山寺桜」という題で詠まれています。
樺桜といえば、『源氏物語』読者なら誰しも
春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見る心地す」(野分巻)
の一節を連想することでしょう。
改めてご説明するまでもなく、紫の上の比喩に用いられた桜こそ、この歌に詠まれたのと同じ樺桜です。
その後、樺桜は
一重散りて、八重咲く花桜盛り過ぎて、樺桜は開け、(中略)その遅く疾き花の心をよく分きて、いろいろを尽くし植ゑおきたまひしかば」(幻巻)
と、生前の紫の上が花期を考慮して植えた花の1つとしても登場します。
『源氏物語』の中で樺桜の名前が挙がるのは、この2ヶ所のみ。
紫の上に関わってだけ登場する特別な桜なのです。
こうなると、紫の君が登場した北山で「三月のつごもり」(若紫巻)に咲いていた山桜が「春のとぢめ」に咲く鞍馬山の樺桜だったら、いかにも相応しい・・・と考えたくなるのは、源氏読みにとっては自然な感情ではないかと思います。

もう1つ、同じく柏木氏が挙げておられるのが、『赤染衛門集』や『更級日記』に記された、鞍馬山を滾り落ちる滝の存在です。
特に『更級日記』の「山際霞みわたりのどやかなるに」「たぎりて流れゆく水、水晶を散らすやうにわきかへる」といった記述は、確かに若紫巻で繰り返される春霞と滝の音の描写と重なるようにも思えます。
ただ、初瀬詣の道すがら宇治を通った際には
紫の物語に宇治の宮のむすめどものことあるを、いかなる所なれば、そこにしも住ませたるならむとゆかしく思ひし所ぞかし
殿の御領所の宇治殿を入りて見るにも、浮舟の女君のかかる所にやありけむなど、まづ思ひ出でらる
と、真っ先に『源氏物語』に思いを巡らせたことを記している筆者が、若紫巻と同じ春の終わりに鞍馬寺に参詣したというのに全くその手の感慨を記していないのは、筆者の憧れのヒロインが夕顔と浮舟であって紫の上ではなかったことを割り引いても釈然としません。
私は、少なくとも孝標女は鞍馬寺を「なにがし寺」のモデルとは考えていなかったのではないか、と感じています。

以上ご紹介したこれらの資料は、「なにがし寺」を鞍馬寺と見做す根拠とするには弱すぎますし、『源氏物語』より後に成立した資料が特に若紫巻を意識している様子も見られません。
ですが、資料の存在を知った後世の注釈者が、若紫巻と結び付けて考えたくなるのもわかる気がします。
敢えて勝手な推測をすれば、諸々の知識をお持ちの専門家の方がより一層、難が多い筈の鞍馬寺説に捨て難い魅力を感じてしまうのかもしれません。

掲載の写真は、2008年4月撮影の鞍馬寺本殿金堂。鞍馬寺の記事に載せたのとは反対方向から撮影しています。

【参考文献】
角田文衞, 加納重文編『源氏物語の地理』思文閣出版 1999年
伊藤博編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識5 若紫』至文堂 1999年
「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観』角川書店 1983-1992年
国際日本文化研究センター作成「和歌データベース」

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (0)

2008年4月27日 (日)

鞍馬寺

193kuramadera_1 光源氏が幼い紫の君と出会う北山の「なにがし寺」は、『河海抄』が「鞍馬寺歟」と注して以来、永らく鞍馬寺をモデルとするのが通説でした。
昭和になって、“鞍馬寺では都から遠すぎる”“鞍馬山から都は見渡せない”“『源氏物語』執筆当時の鞍馬寺は真言宗だった”など若紫巻の記述との食い違いが指摘されるようになり、特に角田文衞氏が詳細な考証を基に大雲寺をモデルとする論文「北山のなにがし寺」(『若紫抄 : 若き日の紫式部』〔至文堂 1968年〕所収)を発表して以降、鞍馬寺説は否定されたように思われますが、意外に近年の出版物でも「なにがし寺」を鞍馬寺と記しているものが結構あります。
ごく最近の例としては京都市が源氏物語千年紀事業として各地に設置した「源氏物語ゆかりの地」説明版が挙げられ、「なにがし寺」の候補地として大雲寺と並んで鞍馬寺にも説明版が設置されています。
(参照:京都市情報館〔京都市ホームページ〕内「「源氏物語ゆかりの地」説明板について」)

「なぜ未だに鞍馬寺説が生き残っているのか?」という疑問から、実際に春の鞍馬寺を訪ねてみました。
その結果から申しますと、
「たとえ地理的には一致しなくても、鞍馬寺は現代の読者が若紫巻の描く情景を疑似体験するには相応しい場所である」
と言えます。
ちょうど、京都御所が地理的には平安宮内裏と全く違う場所にあるけれど、あそこを訪れることで『源氏物語』に描かれた内裏の諸場面を想像することができるのと、同じ関係です。

鞍馬寺は、仁王門から山桜に囲まれています。
市街地の桜の満開から1週間後に訪問したこのときはまだ蕾~3分咲き程度で、あと5・6日もすれば「京の花盛りはみな過ぎにけり。山の桜はまだ盛りにて」(若紫巻)という情景になると思われました。

194kuramadera_2 195kuramadera_3 仁王門をくぐると、山特有のひんやりとした空気に包まれ、参道の傍らには小川、そして少し登ると「魔王の滝」と呼ばれる滝が落ちています。
この辺りは、源氏が僧都の坊に泊まった場面で「山風」「滝のよどみ」「山おろし」「滝の声」と繰り返される描写を連想させます。

「鞍馬の火祭」で有名な由岐神社を通り、若き日の源義経が暮らした東光坊跡に建てられた義経公供養塔を過ぎると、いよいよ清少納言が「近うて遠きもの」(『枕草子』第一六一段)と記した九十九折参道にかかります。
この九十九折の道が、鞍馬寺を「なにがし寺」のモデルと見做す最大の根拠となりました。

すこし立ち出でつつ見渡したまへば、高き所にて、ここかしこ、僧坊どもあらはに見おろさるる、ただこのつづら折の下に、同じ小柴なれど、うるはしくし渡して、清げなる屋、廊など続けて、木立いとよしあるは、(若紫巻)

源氏が聖の巖屋から僧都の坊を見つける場面です。
ただし、現在の鞍馬寺の九十九折参道は杉などの背の高い木々に覆われており、下を見通すことはできません。
本殿金堂までの道のりは、高さにすれば110mほどですが、歩く距離は791m。
30分ほど山道を歩くことになります。
この参道のそこここにも山桜が植わっていますが、どの木もまだ蕾でした。
やはり市街地よりはだいぶ花期が遅いようです。

196kuramadera_4 197kuramadera_5 長い参道を登りきると、さまざまな種類の桜に埋もれるようにして建つ本殿金堂に辿り着きます。
ここの桜は参道の山桜よりも少し花期が早いらしく、ほぼ満開の種類もありました。
これやこの音に聞きつるうず桜くらまの山に咲けるなるべし」(『定頼集』45番歌 『夫木和歌抄』巻四春部四にも採録〔1443番歌〕)を思い出させる見事な桜です。

更に奥の院魔王殿へ向かう参道を登っていくと、霊宝殿の少し手前にある鐘楼から、本殿金堂を見下ろすことができます。
この参道は九十九折ではありませんが、高いところから視界が開けて屋根や参拝客の様子が見下ろせる点は、上に引いた「高き所にて、ここかしこ、僧坊どもあらはに見おろさるる」情景とちょっと似ています。

以上のように、鞍馬寺は随所に若紫巻が描く「なにがし寺」の雰囲気を味わうことのできるお寺です。

最後に、平安時代の鞍馬寺についてざっとご紹介しておきましょう。
創建は延暦十五[796]年、造東寺長官であった藤原伊勢人が東寺草創に伴って堂塔伽藍を建立したと伝えられています。
(寺伝では、それ以前に宝亀元[770]年に鑑真の弟子・鑑禎が毘沙門天像をこの地に祀ったのが始まりとあるそうです)
寛平年間[889-898]に東寺十禅師逢延が伊勢人の孫・峰直の帰依を受けて鞍馬寺根本別当となって以来真言宗の公寺となりましたが、天永年間[1110-1113]に天台座主忠尋が来山したのを機に天台宗に改宗し、延暦寺の末寺になりました。
平安初期から都の北方の守護神として信仰を集め、藤原頼通(『小右記』長和三[1014]年一月十四日条・『御堂関白記』寛仁二[1018]年二月十四日条)や白河上皇(『中右記』寛治五[1091]年九月二十四日条)などの参詣の記録も見られます。
本尊中尊の毘沙門天像は、左手を額にかざして遠方を眺める姿をしており、いかにも北方を守護するに相応しく思われますが、両腕の部分は後補で、当初は古図に描かれているように戟を執る姿だったとする説もあります。
あまりにも有名すぎて今更言うまでもないでしょうけれど、源義経が幼少期を過ごしたお寺でもあります。

少し行きにくい場所にある鞍馬寺ですが、是非とも市街地の桜が散り過ぎた頃に訪れることをお薦めします。

写真は上から順に以下のとおりです。すべて2008年4月撮影。

  • 石段下から見上げた仁王門
  • 筧から落ちる魔王の滝
  • 杉木立に囲まれた九十九折の参道
  • 桜の花越しに見た本殿金堂
  • 鐘楼から見下ろした本殿金堂を中心とする鞍馬山の風景

【Data】
住所:京都市左京区鞍馬本町1074
交通:叡山電鉄鞍馬線鞍馬駅・京都バス鞍馬下車徒歩5分
拝観:9:00~16:30 愛山料200円(中学生以下は無料)
tel.:075-741-2003

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
角田文衞, 加納重文編『源氏物語の地理』思文閣出版 1999年
伊藤博編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識5 若紫』至文堂 1999年
国史大辞典編集委員会編『國史大辭典』吉川弘文館 1979-1997年
平凡社[編]『京都市の地名』(日本歴史地名大系27)平凡社 1979年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース
総本山鞍馬寺『くらま山』 ※拝観者用パンフレット

※角田文衞氏の論文「北山のなにがし寺」は、上記『源氏物語の地理』『源氏物語の鑑賞と基礎
 知識5 若紫』にも収録されています。

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (1)

2008年2月16日 (土)

初瀬詣の道を辿る

『源氏物語』で玉鬘や浮舟が長谷観音の加護を求めて辿った初瀬詣の道のり。
平安時代は片道3・4日もかかる長旅でしたが、現在はその道を1日で辿ることができます。
道中の史跡を訪ねながら、現代の初瀬詣の旅をご紹介しましょう。

都の出立を京都駅に設定するなら、JR奈良線に乗るところから旅が始まります。

京都駅を出発して、最初の停車駅は、東福寺。
平安時代、この駅の200mほど北にある一橋小学校付近から次の稲荷山駅辺りにかけての広大な地域に、藤原忠平が建立した法性寺の大伽藍がありました。
都を出て宇治や大和へ向かう道筋のランドマークとして『源氏物語』や『蜻蛉日記』『更級日記』などに登場します。

更に15分ほど電車に揺られると、宇治川を越えて宇治駅に着きます。
宇治は、平安時代には貴族の別業が数多く営まれ、初瀬詣の際には往復とも中宿りに利用されました。
殊に『源氏物語』椎本巻で匂宮が初瀬詣の帰りに中宿りをする夕霧の宇治別業は、平等院の前身である藤原道長・頼通父子の別業「宇治殿」がモデルと見られています。

宇治から更に2駅先の新田駅は、みやこ路快速は停まらない駅ですが、周辺の大久保・広野付近が平安時代の栗隈郷と比定されており、この辺りの丘陵が『更級日記』に登場する「栗駒山」と見られています。
また、こちらも『源氏物語』には登場しないものの、『枕草子』の「初瀬に詣でしに、水鳥のひまなく居て、立ち騒ぎしが、いとをかしう見えしなり」(第三十五段「池は」)との記述をはじめとして『蜻蛉日記』『更級日記』にもその名が見える「贄野の池」は、中世末には消滅してしまったようで現在でははっきりした位置がわかりませんが、各書の注釈などは綴喜郡井手町付近としています。
私が見た中で一番詳しい記述がされていたのは『京都府の地名』で、綴喜郡井手町多賀の南谷川北側に生じた後背湿地と推定しています。
多賀は、新田駅から4つ先の山城多賀駅から直線距離で2kmほど東に位置していますので、この辺りのJR奈良線は平安時代の道よりもやや西を走っていることになります。

更に奈良線で南下してゆくと、木津駅に着く直前で木津川を渡ります。
木津川は平安時代には「泉川」と呼ばれ、渡し舟が往来していました。
JRの鉄橋より400mほど西の泉橋寺の門前に渡し場があったようです。
『源氏物語』宿木巻で、浮舟の初瀬詣に同行した女房が「泉川の舟渡りも、まことに、今日はいと恐ろしくこそありつれ」と語ったのは、ちょうどこの辺りのことです。

奈良線からそのまま関西本線(大和路線)に乗り入れ、終点の奈良駅に着いたらJR桜井線に乗り換えます。
奈良駅から30分ほど南に下った三輪駅で下車して20分ばかり歩くと、初瀬詣に向かう人々が参詣の準備を整えた椿市に着きます。
現在は桜井市が設置したと思われる看板が立っているだけで、清少納言が「大和にあまたあるなかに、長谷にまうづる人のかならずそこに泊るは、観音の縁のあるにやと、心異なり」(『枕草子』第十一段「市は」)と記した往時の面影を留めるものは何もありませんが、『源氏物語』玉鬘巻で玉鬘一行と右近が邂逅したのがこの場所です。

椿市からは、一旦初瀬川を渡って桜井駅まで歩き、近鉄大阪線に乗り込みます。
その名もずばりの長谷寺駅は、桜井駅から2つ目。
電車を降りると、駅から初瀬川までは急な下り坂で、川を渡ると今度は川の流れに沿うように長谷寺へ至る参道の緩やかな上り坂が続きます。
参道の道のりは、山に囲まれた谷間を山に向かって歩いているのがよくわかり、記紀・万葉の時代から「こもりくの初瀬」と詠われたこの土地の地形が実感できます。

駅から20分ほど歩くと、目的の長谷寺に到着です。
参道の終点は石段、そしてその先の仁王門をくぐると、長い長い登廊が姿を現します。
399段の登廊を上って、ようやくご本尊の観音菩薩像の前に辿り着きます。
現在は、本堂と礼堂の間の通路のようなところから仏様の姿を覗き込むような格好でのお参りになりますが、平安時代は堂内に局を設え、一晩中そこに籠って祈りを捧げました。
右近が局は、仏の右の方に近き間にしたり。この御師は、まだ深からねばにや、西の間に遠かりけるを、」「暮るれば、御堂に上りて、またの日も行なひ暮らしたまふ。」(『源氏物語』玉鬘巻)といった描写から、当時の参籠の様子が窺えます。

尚、私は気づかずに通り過ぎてしまったのですが、長谷寺の拝観案内パンフレットによると、境内東側にある駐車場前の初瀬川対岸には「玉鬘の大銀杏」と名づけられた銀杏の木が植わっており、また『源氏物語の鑑賞と基礎知識12 玉鬘』によれば、川にかかる小橋の欄干には、右近が「二本の杉のたちどを尋ねずは古川野辺に君を見ましや」(玉鬘巻)と詠んだ「古川野辺」の文字が刻まれているそうです。

以上の道のりは、『源氏物語』に登場しない場所を除き、実際に私が途中下車をしながら辿ってみたものです。
朝京都を出発すれば、日帰りで充分に行って戻ってくることができます。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
平田喜信編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識12 玉鬘』至文堂 2000年
平凡社[編]『京都府の地名』(日本歴史地名大系26)平凡社 1981年
総本山長谷寺『長谷寺』 ※拝観者用パンフレット

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (0)

2008年2月 3日 (日)

法性寺

182hosshoji 平安中期、平安京を鴨川沿いに南へ下っていくと、九条大路の先、都の東南端と向き合うようにして、川の東側に壮大な寺院が建っていました。
藤原忠平が建立した藤原氏の氏寺・法性寺(ほっしょうじ)です。

法性寺の創建時期は明らかではありませんが、『貞信公記』延長ニ[924]年ニ月十日条に「参法性寺、始聴鐘音」と名前が出てきますので、これ以前に建立されていたことは確かです。
その後も鐘楼や新堂の建設や仏像の新造安置など拡張・充実が続けられ、承平年間[931-938]には朱雀天皇が御願堂2棟を建てて御願寺とし、天慶八[945]年には皇太后藤原穏子が多宝塔と一切経を供養するなど、皇室による供養もさまざまに行われました。
天暦三[949]年に忠平が没すると、亡骸は法性寺の東北の地に埋葬され、忠平の追善供養も法性寺で営まれました。
法性寺は天暦八[954]年に亡くなった穏子の国忌法要の場ともなり、以後も藤原北家の法要が数多く執り行われました。
更に寛弘年間[1004-1012]には、忠平の曾孫に当たる藤原道長が堂宇の整備に力を注ぎ、焼失したままになっていた堂の再建や既存の堂の修理を行った他、境内には新たに道長建立の五大堂や藤原公季建立の三昧堂などが加わりました。
また『小右記』に度々登場する東北院は、忠平の子・実頼が法性寺内に創立した子院です。
久安四[1148]年に藤原忠通(道長の5代後の子孫)の妻・宗子が造営した最勝金剛院も、面積としては法性寺の大部分を占める大規模なものだったようですが、形式的には法性寺の子院だったと見られます。

183tofukuji 多数の堂塔や子院があったことが文献から知られる法性寺ですが、その寺域は、南北は法性寺大路一の橋(現在の一橋小学校付近)から稲荷山まで、東西は鴨川から東山山麓までという、実に広大なものだったと推測されています。
現在の東福寺は、最勝金剛院を受け継いだ九条道家(忠通の曾孫)がその地に建立したものですが、東福寺の大伽藍造営に伴って法性寺の伽藍配置は改変され、次第に東福寺に吸収されるようにその姿を失っていったようです。
更に京都の町を幾度も襲った兵火が追い討ちをかけ、法性寺の堂宇は尽く焼失してしまいました。
現在は、本町通沿いに建つ浄土宗の小さな尼寺が「法性寺」の名を受け継いでいます。
現・法性寺の本尊である千手観音像は、延長三[925]年建立の法性寺灌頂堂の本尊と推定され、忠平による創建当初から伝わる唯一の仏像と見られています。

先に法性寺の歴史をざっとご紹介しましたが、『源氏物語』の書かれた平安中期の話に戻りましょう。
当時、人々にとって法性寺は、都から宇治や大和へ南下する際の最初のランドマークだったようです。
『蜻蛉日記』と『更級日記』では、いずれも初瀬詣での道行きの中で法性寺が登場します。

日あしければ、門出ばかり法性寺の辺にして、暁より出で立ちて、午時ばかりに、宇治の院にいたり着く。(『蜻蛉日記』安和元[968]年九月)

道顕証ならぬさきにと、夜深う出でしかば、立ち遅れたる人々も待ち、いとおそろしう深き霧をも少し晴るけむとて、法性寺の大門に立ちとまりたるに、田舎より物見に上る者ども、水の流るるやうにぞ見ゆるや。(『更級日記』永承元[1046]年十月)

日柄が悪いために仮の出立をして法性寺の辺りに一泊したという『蜻蛉日記』の記事からは、都の外であり同時に都に近接している法性寺の地理的な特徴が感じられます。
また『更級日記』の記事は、後冷泉天皇大嘗会の御禊の日、その見物に上京してくる人々が引きも切らない中を逆らうように都から初瀬へ向かうという内容で、法性寺の門前が都と宇治・奈良方面とを結ぶ街道であったことがわかります。

『源氏物語』の中でも、法性寺は宇治への道を辿る場面で姿を見せます。

「近きほどにや」と思へば、宇治へおはするなりけり。牛などひき替ふべき心まうけしたまへりけり。河原過ぎ、法性寺のわたりおはしますに、夜は明け果てぬ。(東屋巻)

京のうちだに、むげに人知らぬ御ありきは、さはいへど、えしたまはぬ御身にしも、あやしきさまのやつれ姿して、御馬にておはする心地も、もの恐ろしくややましけれど、もののゆかしき方は進みたる御心なれば、山深うなるままに、「いつしか、いかならむ、見あはすることもなくて帰らむこそ、さうざうしくあやしかるべけれ」と思すに、心も騷ぎたまふ。法性寺のほどまでは御車にて、それよりぞ御馬にはたてまつりける。(浮舟巻)

東屋巻は、薫が浮舟を三条の小家から宇治に連れ出す場面です。
車に掛け換える牛の手配と並んで、鴨川の河原から更に法性寺の名前を挙げることで、「都を出て遠く宇治まで向かうのだ」と、薫からどこへ行くとも知らされていなかった浮舟らと共に、語り手と読者も行き先を確認するような書き方になっています。
浮舟巻の方は、薫が宇治に浮舟を隠れ住まわせていると知った匂宮が、密かに宇治へ赴く場面で、人目を避けるために都の中は牛車で移動し、法性寺から馬に乗り換えています。
どちらの場面からも、都を出て、宇治へと南下するその起点として、法性寺の位置が意識されていることが感じられます。

現在も、京都から宇治を経て奈良に至るJR奈良線に乗ると、最初の停車駅は「東福寺」。
停車している間の一時、1000年前の旅路の見守った大伽藍の姿にちょっと思いを馳せてみるのもいかがでしょう?

写真は、上が現在の法性寺(2007年7月撮影)、下が東福寺臥雲橋から見た境内(2004年11月撮影)です。

【Data】
法性寺
 住所:京都市東山区本町16丁目307
 交通:京阪本線・JR奈良線東福寺駅下車徒歩3分
 拝観:要事前申込 拝観料志納
 tel.:075-541-8767
東福寺
 住所:京都市東山区本町15丁目778
 交通:京阪本線・JR奈良線東福寺駅下車徒歩10分
 拝観:9:00~16:00 通天橋・開山堂400円 方丈八相庭園400円
 tel.:075-561-0087

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
雨海博洋編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識16 椎本』至文堂 2001年
『日本大百科全書』小学館 1984-1994年
平凡社[編]『京都市の地名』(日本歴史地名大系27)平凡社 1979年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
京都市情報館(京都市役所)内「東山区役所
JR東海「そうだ 京都、行こう。」内「法性寺」(京都便利帖 > スポット情報 > 法性寺)※拝観情報

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (1)

より以前の記事一覧